庭作りを自己表現だとして一生懸命仕事している植木屋さんも沢山いますが、私は違うのです。以前のブログでも書いたと思いますが以下再び伝えます。
例えば外国に「日本の庭」を作るとすれば、そこには日本の究極がなければいけないと思います。私がもし日本で「英国の庭」を表現するとしたら私自身が英国の究極を知っているべきです。また、「自転車の庭」というタイトルで庭を作るとしたら自転車の究極を表現したい。それが「椅子の庭」であれば主役は椅子でしょうか、または椅子からの景色でしょうか。仮に「座る」という行為に絞られるのであればそれは「椅子の庭」ではなく「座の庭」になるな、とか。。「○○の庭」となった場合の○○には世界中のあらゆる単語が入ると思うのです。「ラーメンの庭」とか「猫の庭」とか。。そしてそこには○○の究極があって欲しいのです。そういったことを考えながら日々「○○邸のお庭」を造園しています。
私が他の植木屋さんと違う庭作りをしているとすれば
それはそこに住む人の命そのものを庭にするのが前提で庭作りをしていること
生活を 人を より美しくさせる という事もふくめて
そこには自己表現は必要ない
ましてや造園セオリーなんか皆無
いままで見て感じて してきたなかで美しいと思えるものを引出しにしまってきた
それをいかに当意即妙に出していくかに集中している
事実、庭蝉施工例は多種多様で幅広い
それは住んでる人が違うのだから当然だと考えている
だから稀に建物を建てた建築屋さんなんかに横槍を入れられてしまうと感覚的にすべてがズッコケてしまいそうになる。それは住む人の色を時に濁してしまう怖さがある。
今 途切れる事なく 集中を
良いものは確実に作れている