10月中旬
私の奉仕する千葉市中央区の蘇我ヒメ神社で毎年恒例の大祭が行われ、
神輿が町内を渡御した。
その道中、加藤邸の前で神輿が何度も揉まれた(笛に合わせエイエイヤーと上げ下げを繰り返す)。これは各土地の大事な要所で揉むことで神様に喜んでもらうもの。大祭の半月ほど前に加藤家主の幸一さんが亡くなってしまった。幸一さんには神社の皆がとてもお世話になっていて60代での早い惜報に「ヨシッ 幸一の家の前でいっちょ揉むベエヨ!!」という経緯でした。2回も揉めばその場に居合わせた観衆も何か意味を感じるし、玄関先で待っていたお母様も感謝で涙していた。
しかし、それだけでは終わらなかったのだ。
2回揉んだ時点で「みんなありがとう!!」と次に移動しようとするところ神輿の担ぎ手の何人かが罵声怒声に近い叫び声をあげた。
「ふざけんじゃネエもっと揉めこらあ!!!」
「おれらどんだけ世話んなってっと思ってんだこら!!!」
千葉固有の雑言葉も混じりそこから怒号の中、実に4〜5回神輿が揉まれたのだ。例年にはないもの凄い盛り上がりに観衆も魅了され、宮司以下祭員の私も含め涙が止まらなかった。担ぎ手含むその場いた半数が涙の中で神輿を揉んでいた。
まぎれもなくあの場を盛り上げ人に感動を与えたのは幸一さんとその周りにいた人達。幸一さんが地域に尽くしたエネルギーと想い、その恩恵を受けて感謝しているたくさんの人達の幸一さんへの想いが神輿を揉むという行為に凝縮される。私はそこに「神域」を感じ得た。
神という存在は目に見えない
人々が作り上げた偶像である
しかしこれほどに感動し鳥肌がたつ場所に直面した時
私の脳裏に擬人化された神様が笑っているようだ、と
思えてならずにいられないのだ