温かい雨の中

  比較的すごしやすい雨の日々 これはこの時期ならではの感覚です

  寒くもなく暑くもなく 軽く濡れた程度で心地よい気温です

 季節はといえばまさに半夏生のきれいな季節で一昨年のこの時期に行った建仁寺の庭を思い出します。その庭の中にある茶室でお茶を一服いただいたのですが、普段は閉ざされた戸をすべて外し、実に開放的なひと時を味わいました。朝の光を一面に浴びた眩しいくらいの半夏生群とその水面を駆け上がってくる涼風に、只ただ唖然。これは幻想かと隣にいた知らないオジ様風の方と目を見合わせてしまいました(笑)それもすべてこの長い雨の時期の恵み得てこその感動でした。


 最近よく耳にする話なんですが、これは私が神社奉仕をするようになり聞いた話です。

 それは神社の樹木が邪魔である、という苦情があちこちで絶えず、神職さんたちは非常に困っているという事です。。なんという哀しいことでしょう。そんなことももう人々は分からなくなってしまったのだろうか。。今現在、日本に於いて、そこにある神社よりも古くからある建物というのはほとんど皆無でして、神社というのは遷御(移動)された一部の神社を除いて、1300年近くその土地に御座します神様の家なのです。過去、神社が中心となり町や村が成り立っていた時代、神社の近くに住むというのは名誉なことであり、その地の有力者たちが集まっていました。また、田んぼだったり森だったりという日本の原風景は神社の周りだけでも残そうという考えのなか、そういった土地がまだ残されている地域も多いです。そんな中、神社の隣に家を建て、神社の樹木が邪魔で日が当たらないから切ってほしいと神社に言ってくる。そしてそれは「苦情」という体で言ってくるのだそうです。これには神社側も困ってしまいます。過去、神社の樹木を切る場合、それは地域の人達がお金を出し合ってお祭りをやり、申し訳ないですが、神様の枝を少し払わせていただきますというものでした。当たり前です。その樹の放散した新鮮な空気をどれだけ吸って生きてきたか。その樹は夏には日陰を作り、鳥を呼び、水を貯え、秋には落ち葉が堆肥になり来春からの食物を育む。化学的なことや物理的なことは当時知らなくても、その一環を有り難く思えたからこそです。

 私達は今日、何を食べているのでしょう

 今では地球上のあらゆる命をいただき、私達は生きていくことが出来ています


 この吸っている見えない空気は 酸素はどこから来るのでしょう

 それらはすべて目の前の植物から始まっていると考えられませんか?

 化学的に言えば

 人間が必要不可欠なバランスで地球上の気体を形成してくれているのは植物のみです

 
 それが1300年そこに御座します神様の家の樹木であること

 その樹木が地球の全てを司っているわけではありませんが

 1つの有り難さの象徴として扱うことはできないものでしょうか

 命そのものに感謝しなければ我々は人として生きていけません。それを地域が一体となって行う場所、それが神社の役目です。私達神職者はその気持ちを持続していくための橋渡しとして存在しています。植木屋という肩書きをもって、よりその橋渡しをスムーズにできたら、と思います。


  神道のこと、日本のこと、植物のこと、学ぶことがマダマダ沢山あることに焦る日々です

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